革命という言葉を、私は信じることが出来ません。何故なら革命は、何かを壊すことしか出来ないからです。私は、大事なものを壊していく人々に賛同することは出来ません。フランス革命は、封建制と王制を破壊しました。さらにマルクスは政治の問題を経済の問題に還元して、あらゆる社会の歴史は「階級闘争の歴史」であると決めつけてしまいました。革命は、基本的に終わりのないものです。なぜなら革命が成功して新たに政府が建てられると、今度はその政府が市民にとっての敵になるからです。革命というものは、手段を目的化しているように私には感じられるのです。革命を起こすことは、いわば手段のはずです。革命の目的は、革命後に新たな市民のための政府を創ることであるはずです。しかしその過程においてはいつの間にか、革命という手段が目的になってしまうのです。人の暮らしやすい世界をつくることや困っている人を助けることは、目的になりえます。しかし革命を起こすことは、何時まで経っても目的にはなりえないと私は思います。私は基本的に、政府というものは何時の時代も人がつくっているものだと思います。政府対市民という図式を常に念頭におくことは、本当に市民のためになるのでしょうか。人間には、誤った方向に進もうとしている人を助ける責任があります。そのためには、革命を目的化している人々の目を覚まさなければなりません。革命の理論は、運動論や人間の行動規範という意味では優れた功績を遺したかもしれません。しかし、革命は手段というものを重要視するあまり、そこには最も純粋な形での「目的としての目的」が欠けているのではないでしょうか。つまり革命理論には、絶対的な価値観というものが欠けているのではないでしょうか。革命は、全てを疑う所から始まります。しかしこの世界は、それほど疑わなければならないような世界なのでしょうか。人間が他人を疑うと、際限が無くなります。他人の心の内をどれほど考えたところで、一向にそれは人間にとっては分かりません。分からないことを考えるのが人間なのだ、という意見もあるかもしれません。しかし分からないことを考えてそれを歓びだと感じられるのは、人間が言語に対して一定の信頼関係を築いている場合に限られます。もしも言語に疎外感しか感じられないのであれば、分からないことは苦痛でしかなくなってしまいます。そもそも世界を疑うことは、人間にとってそれほど望ましいことなのでしょうか。色々なものを疑わなければならない世界は、人間が暮らしやすい世界だと言えるでしょうか。人間が色々なものを疑わなければならない世界をつくってしまったことが、最大の問題なのではないでしょうか。革命の成果は、特に都市に多く見ることが出来ます。人々が多く集まり近代化された都市はある意味で、疑いの巣窟です。人が人を疑い、様々なものを疑う文化が都市には形成されています。私たちは今こそ、一人一人の人間が自分自身の絶対的な価値観を持つことの出来る世界をつくる必要があるのではないでしょうか。私たちは、人間が必要以上に疑いを持たなくてよい世界を築くことが必要なのではないでしょうか。この世に、無駄な人間など存在しません。この世に生きている人はすべて、生きているというだけで必要とされているからです。しかし残念ながらこの世には、自ら命を絶ってしまう人が多くいます。一人一人の大切な命が、過度な疑いのために捨てられてはなりません。人間は、思っているよりもずっと力を抜いて生きることの出来る生物なのです。人間は、自分が考えるよりもずっと強い生命力を持っています。私は、反革命の温かい心によって一人一人の人間を大切にする世界を築かなければならないと強く思っています。